中越地震被災地視察報告(私が見た中山間地大震災と研究の課題)

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初村 尤而(大阪自治体問題研究所理事)記

 2004年12月8日と9日、私は、新潟県長岡市の笠井則雄市会議員の計らいで、にいがた自治体研究所の福島富副理事長らと中越地震の被災地、新潟県長岡市と山古志村に入った。これはその報告である。

 私は新潟に格別の思い入れがある。2001年から、新潟市、続いて長岡市の財政分析をする機会を得た。分析の対象は「財政」だったが、両市とも合併問題と関係が深かった。当時人口50万1千の新潟市は日本海側初の政令指定都市移行をめざして、周辺市町村を合併しようとし、第1段階として01年1月に人口2万6千の黒埼町を編入した。合併時に策定された新市建設計画の事業費733億円はすべて黒埼町に集中するとされた。新潟市側に事業計画がなかったわけではなく、大型公共事業は目白押しであったが、それらには目をつぶり、人口増加のためにはどんな条件でも受け入れる「条件丸飲み合併」だった。早晩これは破綻した。総額733億円といえば年間にすれば73億円である。合併直後から、新市の財政状況は悪化し、旧黒埼町地域の事業は縮小しつつある。

 長岡市は人口19万人、県内第二の都市である。私が調査中の02年10月に長岡市・見附市・栃尾市など3市4町1村の合併を視野に入れた長岡地域市町村合併研究会が結成された。そのなかには中越地震の被災地・山古志村も入っていた。合併後の人口は30万6千で、かろうじて中核市移行の条件を獲得できるものだった。同研究会は合併後の財政シミュレーションを作成した。財政シミュレーションなるものが自分の分析対象になったのはこの時が初めてだった。当時、新潟県内は合併計画が続出し、これに対応するために、にいがた自治体研究所の会員が中心になって県内をカバーするネットワークが結成されていた。ネットワークが力を入れたのが財政シミュレーションの検討だった。この点が他の合併問題に取り組む住民運動と違う点だった。合併後の財政シミュレーションの作成を合併協議会や自治体当局に要請し、確かに次々と財政シミュレーションが策定された。ネットワークは、自治体財政とくに地方交付税の学習を繰り返し、策定された財政シミュレーションの検討を進めた。私は当時長岡をたびたび訪問していた関係で、長岡地域以外のシミュレーションの検討にも加わることとなった。この時の学習と調査分析の成果が『合併財政シミュレーションの読み方つくり方』(自治体研究社、2003年1月初版発刊)となった。こうして新潟県は、合併の動きが激しい「合併王国」ではあるが、住民の運動で合併協議会がつぶれる数も多い戦場となっている。

 長々と私的なことを申し上げた理由は、今回ひどい地震被害を受けた地域が、合併の動きが激しく、かつ私もまったく無縁ではないからである。すでに大きな被害を受けた堀之内町・小出町など2町4村は11月に合併して魚沼市となった。05年4月には長岡市・山古志村など1市4町1村が合併し、新しい長岡市が誕生する予定である。当面震災下の合併問題も大きなテーマとなりそうだ。このまま予定通り合併してもいいのか、合併するにしても、その前にやっておくべきことがあるのではないか、思いきって延期した方がいいのではないか、今回の震災で疑問が続出している。

 震災については、95年1月の阪神・淡路大震災を体験した私はどうしても「あの時」と比べてしまう。幸い、私は大阪と京都の中間点当りに住んでいるため、震源地から離れていて被害はなかった。それでも睡眠中を震度5に襲われ、布団から立ち上がることができなかったことを覚えている。被災地に入り初めてボランティアを体験し、地震の怖さと被害の悲惨さを目にした一人である。

 「阪神」は文字通り大都市直下型であり、「中越」は中山間地の真下で発生した点で違いがある。被害の現れ方にも、対策の取り方にも違いが出てくるように思う。まずは、視察で見た震災の率直な感想を述べたい。

 まず、家屋の倒れ方に「阪神」との違いを感じた。「阪神」は本当に無惨だった。多くの家屋は見るだけで全壊とわかり、全焼で燃え尽きた住宅が独特の臭いを発していた。多くの住民が倒壊した家屋の下敷きになって死亡し、焼死した。それに比べると「中越」は表面的には家は「建っている」。案内してもらった長岡市内六日市地区のように倒壊し撤去がかなり進んでいるところもあり、今回は訪問できなかったが、川口町などでは多くの住宅が倒壊したとテレビや新聞は伝えている。しかし、その数は「阪神」に比べればはるかに少ないように見えた。家屋の下敷きになった死者が少なかったのはそのためだ。専門的なことは分からないが、理由は私にも想像できる。よく知られるようになったが、中越地方は有数の豪雪地域である。私も03年12月に今回の震災地の近くの津南町から長野へJR飯山線で移動したことがある。津南駅で列車待ちしていた30分ほどの間に、降り始めた雪がみるみる積み重なってゆくのを見た。並の雪国ではないとこの時ちょっぴり怖くなった。きっと中越地方の家屋はそんな豪雪にも耐えうるようにしっかりと建てられていて、そう簡単には倒れなかったのだろう。それに比べれば、阪神地域には文化住宅とかアパートとよばれる高度経済成長時代に建てられた粗悪な集合住宅が密集して建ち並び、しかも築後30年以上経っていたものも多かった。「阪神」ではそういう家が真っ先につぶれ人を圧死させた。そもそも家の造りが比べものにならないのだろう。

 では、「中越」の住宅は何ともないのかといえば決してそうではない。一見したところ何の損傷もなく、確かにそこに「建っている」のだが、住宅の「足下」を見ると、地面が滑り落ち住宅の端が宙に浮いている。地面ごと家が1メートルほど横に移動したものもあった。「阪神」では住宅を建替えればよかったが、「中越」では建替えようにも土地の状態が震災前と同じではないのである。もちろん、「阪神」の時にはそんな例がなかったわけではない。私の友人の家は高台に建っていたが、地面の崩れで一部を失い、家も傾いた。しかし、そんな住宅は「阪神」では比較にならないほど少なかった。

 考えてみれば、住宅は土地のうえに建っている。土地あっての住宅であり、住宅=土地+建物、なのだという当たり前のことを私は再認識させられた。長岡市長が今回の震災の特徴を「地盤災害」と言ったのはまさにその通りである。災害復旧支援のなかに「地盤回復」を含めなくてはならないと思う。

 土地の大切さは、住宅だけではない。「中越」では住民の生活そのものが土地との関係が深い。魚沼産コシヒカリは何年もかけて作りあげられた優良な田んぼから生産される。錦鯉の養鯉場は、そこにあるから意味があるのであって、移転は難しい。そして田んぼや養鯉場の近くで住民は暮らしている。土地と生活は切り離しがたく結びついているのである。「阪神」では、寝泊まりする場所を移動すればすむサラリーマンは別の場所に居所を変えることで当座をしのげた。ちょっとお金のある人は大阪や京都のホテルから通勤した。「今回」もそういう人もいるのだろうが、多くの人は転居できない。全村避難となった山古志村の住民の9割が村に帰りたいと言っているのは、単なる望郷ではなく、帰らなければ生活を維持できないからだと受け止めるべきではないか。

 「阪神」で問題になったのはコミュニティからの遮断だった。「中越」では、仮設住宅の建設とそこへの移転にさいして、従来の地域のつながりを壊さないことが不十分ながら配慮されているように見える。「ご近所」から、とくにお年寄りを切り離してはならないという「阪神」の教訓が生かされたようだ。残念ながら、仮設住宅の実情を視察することはできなかったが、そう願わずにはいられない。

 はじめにも述べたが、「阪神」が大都市型震災であったとすれば、「中越」は中山間地型震災と言えるかもしれない。テレビや新聞が全国に伝えた震災の象徴的な映像は何かと問われれば、「阪神」の時は、阪神高速道路の倒壊と数日間続いた火災、「中越」は、埋もれた土砂からの子どもの救出と、「天然ダム」の発生だと答えると思う。両者は、大都市型災害と中山間地災害を象徴している。だとすれば、「中越」震災からの復興は、国土の7割をしめる中山間地をこれ以上潰さないことであり、その再生ではなかろうか。全国町村長会が2002年11月にまとめた「21世紀の日本にとって、農山村が、なぜ大切なのか」には「農山村のかけがえのない価値」について、(1)生存を支える、(2)国土を支える、(3)文化の基層を支える、(4)自然を活かす、(5)新しい産業を創る、の5つがあげられている。中越地震による被害からの復興はこうした中山間地の国土に果たす役割の大きさを政治や社会がどの程度理解しているかの試金石ともなろう。「中山間地の復興」を本気に考えるのなら、長岡地域の合併はとりあえず延期すべきだという結論になる。

 第一に、震災によっていまある新市建設計画が無意味になっている。急ぐのは震災復旧・復興であって、合併特例債による事業ではない。年間予算25億円の山古志村が受けた1,200億円とも言われる被害を山古志村が賄いきれるものではない。合併しても新しい長岡市が担いきれるはずもない。長岡市から村へ通じる道路、村の中を走る道などは、村道を含めて国や県が整備しなければ、例え長岡市といえども無理だろう。復旧・復興事業が行われれば、新市建設計画で予定されていたものがすんでしまうかもしれない。05年4月の合併はいったん延期し、新市建設計画を作り直す必要がある。改めて合併後必要な事業は何なのか合併協議会での議論が必要である。

 第二に、合併を急がせている財政支援策がまったく効力がないことがはっきりし、合併を急ぐ必要がなくなってきた。今年3月に合併したばかりの新潟県佐渡市の財政が国の三位一体改革の影響もあって今後10年間で734億円の歳入不足(年間73億円)に陥ることが予測され、新市建設計画の全事業を見直さざるをえなくなった。また、昨年12月に合併してできた三重県いなべ市(人口4万5千)では、新市財政計画での04年度の地方交付税は27.74億円となるはずだったが、実際に交付される額は22.88億円と5億円近く減り、県支出金も15.47億円を見込んでいたが7.02億円にすぎないという。これに対して市債発行額は21.12億円の見込みに対して、2.75倍の58.15億円になるという。合併時に国民健康保険税、保育料、上下水道料金を低い町に合わせたが、04年度の所信表明で市長は国保税と水道料金の値上げの意思を示した。つまり、合併しても財政効果はまったく期待されなくなったのである。それならば、05年3月までの合併を急ぐ理由はまったくない。

 大震災を目の当たりにして、合併が地方自治にとってけっしてプラスにはならないことを改めて私は感じている。にいがた自治体研究所の福島副理事長は、東京都三宅島の例をあげて、三宅島は三宅村という単独の自治体であるからこそ、全島避難後4年を経過しても島への帰還が行政の最大テーマになり続けることができるのだと言われている。もし、山古志村が長岡市に編入され、長岡市山古志地区となってしまったときに、それでも村への帰還が新しい長岡市のテーマとなりつづられるか疑問である。だから、少なくとも山古志村では合併を延期し、住民の多くがもとの生活ができるように復旧・復興事業を行い、そのあと合併しても遅くないと私は思っている。

 以上は、私が長岡市と山古志村を視察した感想である。

  
倒壊した家、潰れた道(山古志村の姿)
撮影:笠井則雄長岡市会議員、2004年12月8日
   数十センチずれた山古志村役場横の階段
撮影:初村 尤而、2004年12月8日
      
  
縁が崩れ、水が切れた養鯉場(山古志村)
撮影:初村 尤而、2004年12月8日
   崩れた養鯉場の縁、左の写真の右上部分
撮影:初村 尤而、2004年12月8日
      
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